2012年12月11日火曜日

手紙に書くほどでもないことは、手紙にしか書けない。

町田康に「工夫の減さん」という短編があり、その冒頭部分が大変に好きである。
以下、引用。

減さんから手紙が来た。手紙というと娘のようだけど減さんはおっさんである手紙には、
「猫の子をひらったので見に来て下さい。とても可愛い。名前をつけてください。今年の冬は厳しいきつい、ピース」と書いてあり、ピースの後に、Vサインをする手の絵が描いてあった。減さんはたったこれだけのことを白紙に書き封筒に入れポストのところまで歩いていって投函したのだ。俺は減さんに電話をかけた。
「別に電話でもいいよ」
「うん。でも仕事中だったら悪いと思って」
「仕事中でも別にいいよ」
「じゃあ、今度は電話にするよ」
「そうしてよ」という話は以前にもした。しかし減さんは相変わらず電話をかけてこず、俺はなかなか猫の子を見に行けなかった。


一読したとき、「別に電話でもいいよ」が返答の一言目として出てくるのがしっくりきた。減さんの手紙に対する反応として最も"かくあるべき"な台詞だと思われた。よほど印象に残ったのか、僕はこれを読んで以来、たまに「別に電話でもいいよ」のくだりを何の理由もなく急に思い出すことがあり、そのたびににやりとしている。

(僕は本を読んでいて気に入ったり感銘を受けたりした箇所には傍線を引くことが多いのだが、いま改めてこの短編が収録されていた講談社文庫『権現の踊り子』を開いてみても、「別に電話でもいいよ」の箇所には傍線を引いていない。結局覚えているのが線を引いた箇所ではなくこういう瑣末なシーンであったりするということは多々あるもので、まったく「印象」というもののとらえどころのなさには首を傾げざるを得ないなあと思ったりするのだが、そんな話はべつに今回の話とは関係ないので、この括弧つきの部分については書かなくてもよかったなと後悔している。)

というわけで先日も、風呂に浸かってじっといるときにこの「別に電話でもいいよ」を思い出し、にやっとしたわけなのだが、そのときにふと疑問が浮かんだ。
はたしてあの減さんのあの手紙は、本当に「電話でもいい」ものなのだろうか。電話であれを話されるのも、それはそれで、しんどくないか。実際に電話で語られていたとしたら、どんな感じだったろう。その会話をいくらか想像上で捏造してみると、

「もしもし、減ですが」
「あ、減さん。どうしたの」
「いや、実はね、猫の子をひらったんだよ」
「猫の子?」
「うん、だから、見に来てほしいんだ」
「ああ、へえ、そうか」
「とても可愛いんだよ」
「ああ、ほんとに」
「で、もっと言うと、名前をつけてほしいんだよね」
「名前?」
「うん」
「俺に?」
「そう」
「ああそう」
「駄目か?」
「別に良いっちゃあ良いけど」
「まあ考えといてね」
「うん」
「今年の冬は厳しいな。きついな」
「そうだね」
「じゃあね」
「はあい」
「ピース」
「はあい」

もちろん町田康が書けばまた違った趣向の会話にはなっていたであろうが、多かれ少なかれ、減さんと「俺」の会話は実りの少ない、微妙な空気の漂うものとなっただろう。

当たり前だが手紙は電話ではない。電話は会話である。絶えず発言が寄せては返す。しかし手紙の場合、発話のベクトルが逆転する回数は極端に少ない。何度もやり取りする文通であろうと、それは会話の比ではない。基本的には、ある程度の質量を持った言葉の塊がゆっくりと一方向へ進んで届く、そんな装置のはずだ。

この特徴のために、会話では出来ないことでも、手紙では出来てしまうということがある。会話をキャッチボールと表現する例に倣えば、それは”暴投”だと思う。

会話において暴投は許されない。相手が取れない球、反応しにくい球を放るとキャッチボールが成立しなくなる。しかし手紙なら許される。暴投を投げられたところで、無理に球をとりにいかなくてもいい。つまり返事しなくてもいい。最悪、相手の反応がなくても手紙には意味があるということだ。電話や会話は違う。一方が無言だと崩壊する。

結婚披露宴で、新婦が「お母さん今まで育ててくれてありがとう」のような手紙を読み上げる。あれも手紙だから成立することで、会話でやったとすればえらいことである。普段の生活のなかで言われても母親は照れくさくてもじもじしてしまうだけで、ろくな会話は成立しない。「なんやの、急に!」くらいしか言えない。直接話すには不適格な内容だからこそ、暴投を許容する手紙に書くのである。

遺書なんて暴投の最たるものだ。はなから相手の返事など期待していない。自分が一方的に投げ、さっさといなくなってしまう。本当の本気で自殺することを決めていて、他の選択肢に変えるつもりがないのなら、口頭で誰かにその意志を伝えるのは難しい。たいてい止められて議論が衝突し、会話がうまく運ばないだろう。しかし遺書という手紙の形をとるならそれはスムーズだ。

『猫の子をひらったので見に来て下さい。とても可愛い。名前をつけてください。今年の冬は厳しいきつい、ピース』
これも暴投だと思うのだ。「俺」は「電話でいいよ」と言うが、電話でこれを話されても、きっと微妙な反応しか返せない。上のほうに書いたような、間の抜けた会話になってしまう。減さんはそれを避けるために手紙を選んだのではないか。まさに減さんの用件は、『たったこれだけのことを白紙に書き封筒に入れポストのところまで歩いていって投函し』なければ伝えられないことだったのだ。手紙にわざわざ書く必要のないようなことは、手紙にしか書けないのである。
思いのほか、減さんはとぼけた人ではないのかもしれない。

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